さだまさしさんの人生、
ただのシンガーソングライターでは語れません。
28億円という個人の借金を背負い、
30年かけて4700回以上のコンサートで完済。
「こんなにしんどいことは、やりたくねえ」
その言葉の奥にある苦しみと、
あきらめなかった強さに胸を打たれます。
この記事では、
なぜそんな借金を抱えたのか?
どうやって返したのか?
そしてその後、彼が何を選び、
どう生きたのかを徹底的に掘り下げていきます。
さだまさしという人間の真の魅力と、
不屈の人生に迫る内容です。
読み終える頃には、
きっと「自分もあきらめずに頑張ろう」と感じられるはずですよ。
さだまさしの借金完済エピソードがすごすぎる理由
さだまさしの借金完済エピソードがすごすぎる理由についてご紹介します。
- ①28億円の個人負債というスケール
- ②映画製作で背負った夢とリスク
- ③完済まで30年、コンサート4700回超の軌跡
- ④「やりたくねえ」と本音を漏らした壮絶さ
- ⑤ファンと歩んだ奇跡の人生
では、それぞれ見ていきましょう。
①28億円の個人負債というスケール
さだまさしさんが背負った借金、
その金額はなんと28億円。
しかも、これは“個人で”というのが衝撃ですよね。
映画「長江」の制作をきっかけに発生したこの借金は、
当時の高金利が拍車をかけ、
利息を含めた総額は最終的に約35億円に膨れ上がったと言われています。
企業でも傾くレベルの金額を、
一人のアーティストが背負うというのは、
まさに異常事態。
しかも「会社じゃなくて個人でですよ?」と本人も語るように、
規模感が常識を超えていました。
たいていの人なら、
その時点で心が折れてしまうと思います。
でも、彼はそこから逃げなかったんですよね。
正直、笑えない金額ですが、
それでも冗談を交えながら語れる彼の胆力、
本当にすごいなと思います。
②映画製作で背負った夢とリスク
そもそもなぜそんな借金を背負ったのか・・・
それは、夢を追ったからなんです。
映画「長江」は、
さだまさしさんの父親の夢でもあり、
家族のルーツに関わる壮大なプロジェクト。
お金儲けというより、
魂を賭けた芸術的挑戦でした。
でも、テレビ向けに撮るはずだったものを
「一生残るものにしたい」とフィルムに変更したり、
撮影規模がどんどん膨らんだりして、
予算が大きく膨らんでしまったんです。
ここに「芸術と経済」の難しさがありますね。
情熱が理性を上回ってしまったとも言えるかもしれません。
でも、「なぜそんな無茶を?」って聞かれたら、
「やりたかったから」としか言いようがない。
それほどの覚悟だったということですよ。
③完済まで30年、コンサート4700回超の軌跡
借金返済の方法はただひとつ。
ひたすら歌うことでした。
年間100回以上のライブをこなす生活が、
なんと30年近く続いたんですよ?
2018年には4300回を突破、
今では4700回超えです。
「歌って稼ぐしかなかった」
と彼自身も語っていて、
実際、それ以外の選択肢がなかったんです。
それにしても、
ただ数が多いだけじゃない。
喉のケア、移動の過酷さ、精神的なプレッシャー…
そのすべてを乗り越えてきたからこそ、
伝説になっているんですよね。
一度や二度の成功じゃなく、
積み重ねで成し遂げた結果というのが、
重みを感じさせます。
④「やりたくねえ」と本音を漏らした壮絶さ
本人が何度も口にするのが
「こんなにしんどいことは、もうやりたくねえ」
って言葉です。
これは本音でしょうね。
想像を絶するプレッシャーのなかで、
絶え間ないステージをこなす。
途中で何度も逃げたくなったと思います。
でも、
「自己破産する勇気もなかった」とも語っていて、
それが逆に彼を支えたのかもしれません。
「逃げるより、立ち向かう方が怖くなかった」。
この一言に、彼の人生哲学が詰まってる気がします。
どんなに明るく振る舞っていても、
その裏には壮絶な苦労がある。
そう思うと、彼の笑顔の深さにグッときますよね。
⑤ファンと歩んだ奇跡の人生
さだまさしさんは、
借金を返せたのは「お客様のおかげ」と何度も言っています。
30年もコンサートを続けるには、
当然ながら支えてくれるファンの存在が必要不可欠。
喉の調子が悪いときには、
トークで笑わせて、
観客の心をつなぎとめた。
そうして一人ひとりと関係を築いていったんですね。
それって、
単なるアーティストとファンの関係を超えた、
同志のような絆なんじゃないかなと思います。
苦しい時代も一緒に歩んできたからこそ、
あのコンサートには他にない温かさがあるんですよね。
さだまさしの映画「長江」が生んだ運命
さだまさしの映画「長江」が生んだ運命についてお伝えします。
- ①「長江」に懸けた夢とロマン
- ②撮影トラブルとフィルム選択の誤算
- ③当時の高金利が破滅的リスクに
- ④自己破産せずに挑んだ理由
それでは深掘りしていきましょう。
①「長江」に懸けた夢とロマン
「長江」という映画は、
ただのドキュメンタリーではありませんでした。
それは、さだまさしさんの家族のルーツ、
特に父と祖父にまつわる物語の延長であり、
「人生の原点に触れる旅」
でもあったんです。
祖父は中国大陸で地図を作っていた軍事探偵、
父は中国生まれ。
そのDNAが、
さださんにとって中国を
“どうしても映像に残したい場所”
にしたんでしょうね。
しかも、主演・監督を自ら務め、
父が製作総指揮という親子プロジェクト。
情熱の深さは想像以上です。
この映画、
企画というより「使命」に近かったんじゃないかなって思います。
そういう覚悟があったからこそ、
のちの苦難も引き受けられたんでしょう。
②撮影トラブルとフィルム選択の誤算
「長江」の撮影は当初、
テレビ用のビデオカメラで予定されていました。
でも、「これは後世に残る作品にしたい」と思い、3
5ミリフィルムに変更。
これが制作費急増の引き金になります。
1年半かけて撮影した長江流域のフィルムは、
実に113万フィート。
もう、プロの映画会社でもなかなか手を出さないスケールです。
しかも、当初の予算2億円から最終的に28億円まで膨れ上がったわけですから、
まさに「夢の代償」が天文学的だったということ。
この決断は、
今でも「映画人さだまさし」の誇りとして残っているでしょうけど、
現実には大きな試練になりましたね。
③当時の高金利が破滅的リスクに
1980年代といえば、
高金利の時代です。
さださんの借金にも、
どんどん利息が乗っかってきました。
元々の28億円に対して、
最終的に利息で7億円が加算され、
総額35億円にもなったとか。
しかも、これは「個人」の借金。
会社の倒産ならまだしも、
個人の人生にかかる金額ではないですよね。
「金利」という目に見えない恐怖。
これが、
彼の人生を長く苦しめた最大の敵だったのかもしれません。
完済できたこと自体が、
もはや奇跡に近いです。
これをネタにして笑って話せるって、
本当にすごいメンタルです。
④自己破産せずに挑んだ理由
普通なら、
「自己破産すれば楽になるんじゃないの?」
と思いますよね。
でも、さだまさしさんは
「自己破産は怖くて考えられなかった」と語っています。
なぜなら、
「自分の夢で起こしたことだから、自分でケリをつけたい」
と思ったから。
「完全にダメだと言われるまで返させてくれ」
と銀行に直談判したそうです。
逃げずに、
全部抱えて生きる・・・
その選択は、
決して簡単なものじゃなかったはず。
それでも、彼は「返す」と決めたんです。
このエピソードを聞いて、
「人間としての誠実さって、こういうことだよな」って感じました。
借金返済の鍵は“歌い続けること”だった
借金返済の鍵は“歌い続けること”だった、
という事実について解説します。
- ①年間100回以上のコンサート活動
- ②歌えない日もトークで勝負
- ③「喉を削っても借金返す」覚悟
- ④観客が“返済の同志”だった
それでは順にご紹介していきます。
①年間100回以上のコンサート活動
さだまさしさんが選んだ“唯一の返済手段”は、
ただひたすら歌うことでした。
1982年には年間162本、
以降も毎年100本以上のコンサートを続けてきたというから驚きです。
このペース、
アーティストのスケジュールとしては尋常じゃないです。
もはやライブというより、毎日が現場です。
もちろん、体調や精神面での負担は相当なものだったでしょう。
でも、彼は「歌うことが唯一できる仕事」と語っていました。
現実から逃げずに、
音楽で返済していく・・・
これが彼の信念であり、道でもあったんですよね。
②歌えない日もトークで勝負
年間100本以上のステージを重ねると、
どうしても喉に限界がきます。
そんなとき、
さださんが磨き始めたのが“トーク力”でした。
実際、彼のコンサートでは
「歌よりトークが長い」
と言われるほど。
その語り口は、笑いあり涙ありの独特な世界観を持っています。
「今日は声が出ないかもしれない。
でも、それでも来てくれたお客さんを楽しませたい」・・・
そんな一心で磨かれたトーク術なんですね。
この副産物が結果的に“名物”となり、
彼のステージに欠かせない魅力になっていったのが面白いところです。
③「喉を削っても借金返す」覚悟
歌い続ける日々は、
彼の身体に大きな代償をもたらしました。
喉は消耗品。
2日に1回歌うことが当たり前の生活で、
常に声帯の限界と向き合う日々だったといいます。
さださんは
「人生の40年は借金を返していた」
と話していますが、
その40年の大半は喉を酷使し続けた時間だったということ。
それでもやめなかった。
というか、やめられなかった。
逃げたら終わりだと自分に言い聞かせていたのかもしれません。
まさに、命を削って返した35億円。
ここまでしてやり遂げる人って、
なかなかいないですよね。
④観客が“返済の同志”だった
さだまさしさんは、
「借金を返したのは自分じゃなくて、観客だった」
と何度も語っています。
それくらい、
ファンの存在が支えになっていたんでしょうね。
どんなに疲れていても、観客の笑顔を見ると、
「今日も頑張ろう」と思えた。
そんな“返済の同志”が、
何万人もいたんです。
特に、リピーターの多さや、
家族ぐるみでライブに来るファンなど、
さださんのステージには独自の温かい空気があります。
ファンとの一体感こそが、
35億円というとてつもない試練を乗り越える
エネルギーになっていたことは間違いありません。
さだまさしが語る「あきらめない」人生哲学
さだまさしが語る「あきらめない」人生哲学について深掘りしていきます。
- ①「人生は苦しいもの」という受け入れ
- ②幸せは“虹”のようなもの
- ③ユーモアと笑いが救いになった
- ④詩島を守り抜いた夢への執着
それでは、それぞれの哲学に触れていきましょう。
①「人生は苦しいもの」という受け入れ
さだまさしさんの哲学の根底にあるのは、
「人生は苦しいものだ」という前提を受け入れる姿勢です。
彼は、お釈迦様の
「人生は苦である」という教えを引用しながら、
「苦しいのが普通なんだ」と何度も話しています。
だからこそ、
「楽になりたい」「早く幸せになりたい」と焦るのではなく、
「苦しみの中で、どうやって笑うか」が大事なんだと。
この考え方があったからこそ、
35億円という絶望的な借金にも折れなかったのだと思います。
「苦しみを受け入れることが、生きる力につながる」
さださんの人生を通じて実感させられる言葉ですよね。
②幸せは“虹”のようなもの
さださんは、
「幸せって、虹みたいなもんだと思うんですよ」
と語っています。
雨が降らなければ虹は出ない。
つまり、不幸や苦しみがあってこそ、
幸せがくっきり見えてくるという意味です。
この発想、シンプルだけど本質的ですよね。
ずっと快晴だと、ありがたさも感じなくなる。
借金を返し終えたとき、
彼は「幸せは、苦しみの裏にあった」と語っています。
まさに虹が見えた瞬間だったのでしょう。
日常にちょっと疲れている人ほど、
この考え方って心に染みると思います。
③ユーモアと笑いが救いになった
さださんの人生哲学で欠かせないのが
「ユーモアの力」です。
28億円の借金を
「実感がわかなかった(笑)」と語るくらい、
常に自分の状況を“笑い”に変えて語ってきました。
辛いことを深刻に語るより、
「ちょっと笑えるように話す」ことで、
自分自身も救われるし、
聞いてる側も元気になれる。
この「笑いながら生きる力」こそ、
さだまさしという人間の最大の魅力かもしれません。
「笑っちゃいながら生きるのが、一番強い生き方なんだよ」
って言葉、沁みますよね。
④詩島を守り抜いた夢への執着
借金生活のなかでも、
さださんが手放さなかったのが
「詩島(うたじま)」という無人島です。
この島は彼が若い頃に買った、
自分だけの“夢の城”。
借金返済のために売ってしまえばよかったのに、
それだけは譲らなかったんです。
「夢まで手放したら、何も残らない」と考えたからでしょう。
詩島は30年間も放置された状態にありましたが、
借金完済後にリフォームを始めたそうで、
今では「詩島のローンを返すのが次の目標」と笑っています(笑)
夢を手放さないこと。たとえお金にならなくても、
大切なものを持ち続けること。
それが、彼の心を折らなかった理由なのかもしれません。
借金完済後も止まらない情熱と挑戦
借金完済後も止まらない情熱と挑戦についてお話しします。
- ①「風に立つライオン基金」で社会貢献
- ②災害支援や地域活動に尽力
- ③今も新たな創作に挑み続ける
- ④「長江」は未来に残す文化遺産
では、借金を返し終えたその後のさだまさしさんの姿に迫っていきましょう。
①「風に立つライオン基金」で社会貢献
借金完済から間もない2015年、
さだまさしさんは「風に立つライオン基金」
という財団を設立しました。
名前の由来は、
自身の楽曲『風に立つライオン』。
アフリカで医療活動をしていた
実在の日本人医師をモデルにしたこの曲には、
利他の精神が強く込められています。
この基金では、
国内外の医療者や教育者、災害被災地支援など、
多岐にわたる活動を展開。
現地での炊き出し支援から医療物資の提供、
さらには音楽による心のケアまで、
本当に手広く、そして丁寧に活動しているんです。
ここまで人のために尽くせるのは、
自分が苦しかった時期を知っているから。
経験が、共感力を生んでいるんですね。
②災害支援や地域活動に尽力
東日本大震災の被災地で、
ある男性がさださんの手を握りしめて号泣した・・・
そんなエピソードがあります。
「この人の痛みは分からない。でも一緒に泣くことはできる」
その想いから、
さださんは小さな避難所まで足を運び、
歌を届けました。
ときには物資を直接運び、
地元の人々と一緒に炊き出しをしたことも。
さらに、
長崎で続けていた「夏・長崎から」という平和祈念の野外ライブ。
こちらも赤字覚悟で20年間続けたんです。
お金があってもなくても、
人の心に寄り添う――そんな姿勢が彼の原動力になっていると感じます。
③今も新たな創作に挑み続ける
借金を返したからといって、
さださんは休んでいません。
むしろ創作活動に拍車がかかっています。
アルバム制作、
新人アーティストとのコラボ、テレビやラジオ出演……
73歳とは思えないエネルギーで、活動を続けています。
「詩島をリフォームした借金が今のモチベーション(笑)」
なんて言ってるあたり、ほんとチャーミングですよね。
挑戦に年齢は関係ない。
好きなことに真剣に向き合っている人って、
それだけで輝いて見えます。
見習いたい姿勢、ここにあります。
④「長江」は未来に残す文化遺産
かつて人生最大の“負債の原因”だった映画「長江」のフィルム。
実は、今も113万フィートの原盤が保管されていて、
「誰かが価値を見出してくれたら、それは嬉しい」とさださんは語っています。
彼にとって「長江」は、
ただの映画ではなく、
自分と家族の想いを映した“時間の結晶”のような存在。
「自分でまた手をつけるつもりはないけど、100年後には宝物になってるかも」
そんな言葉に、少し未来を託したような優しい視線を感じます。
一度は苦難の象徴だったものが、
やがて文化遺産へと昇華する。
この変化もまた、彼の“あきらめない人生”の証ですね。
まとめ|さだまさしの借金完済エピソードを振り返る
エピソード項目 | |
---|---|
28億円の個人負債というスケール | |
映画製作で背負った夢とリスク | |
完済まで30年、コンサート4700回超の軌跡 | |
「やりたくねえ」と本音を漏らした壮絶さ | |
ファンと歩んだ奇跡の人生 |
さだまさしさんの人生は、
単なる芸能人のサクセスストーリーではありませんでした。
28億円という個人負債を背負いながらも、
30年以上にわたって歌い続け、
コンサート4700回以上という偉業を達成。
それは、ファンとともに歩んだ希望のマラソンであり、
「あきらめないこと」がどれだけ人生を変えるかを証明したリアルストーリーでした。
彼の哲学や行動、そして笑いに変える強さは、
今の私たちにも生きるヒントを与えてくれます。
さだまさしさんの社会貢献活動や楽曲の裏側については、
「風に立つライオン基金」公式サイトもぜひチェックしてみてください。
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